昭和42年10月10日 朝の御理解
十月十日という日は、お道の信心をさせて頂く者なら誰でも知っておいででございましょうが、教祖の神様御在世中から、十月十日というたら生神金光大神の永世の祭り日と、様からお伝えを頂かれておられ、ご自分のお祭として教祖様が御在世の頃からこのお祭りは金光大神祭りというてお祭りが続けられました。お隠れになられて、そしてその十月十日を春の天地の親神様の御大祭に対する秋のお祭りという意味ではございませんけれども、まあ秋のお祭りの十月十日というのが中心になって、今日そのお祭りが続けられたんです。ありがたい事ですね。
この十月十日という日は金光大神永世の祭り日、いついつまでも、しかもまだ、現世におあられになる頃からそのお祭りが続けられておった。十年と信心が続いたら我とわが心をまつれ。本当に我とわが心が拝ませて頂けるようにだんだん有難うなってくる。そこに、まあ十年と信心が続いたら我とわが心をまつらせてもらえれるような私はおかげを頂かなければならないと思うのです。どうでしょうか、皆さん。我とわが心が拝めるようになっていきよるでしょうか。有難い事だなあ、本当に自分で自分の心が拝めれる時ほど、人間の幸せはもう最高だと。
ご自分のお隠れになる時に教祖の神様は神様から頂いておられる。旧の(十日と?)、九月の十日と十月の十日と暦の上で連れ添う日がある。その日が金光大神の神上がりの日である。 ? )
(音声が聞きとれない)
(6分より)
それをお互いが、十年と信心が続いたらと、まあ十年二十年( ? )できようと思われるのでございますけれども、例えばどんな信心( ? )
(音声が小さい)
(8分より)
おかげを頂きまして有難うございますとこう、お礼を申し上げれるような気持ち、そういう気持ちを開いておかなければならない。私はそういうために死ぬるにも連れがいろうが、信心に連れがいるという事、連れがいらんですむような信心、為に、なら私は連れがあってはならないというのではないと。最近それを考えるのですけれども、今朝もちょうど私がここへ座らせて頂きましたら、すぐ永瀬さん、久富正義さん、古賀(しんじ?)さん、ちょうど話し合ったように一緒にお参りになられた。御祈念前からお参りをされる事はだいたい( ? )。いわゆる朝参り( )あっちこっちからお参りされるのですけれども、期せずして五時の前に、御祈念前にここにこう顔が揃われて、まあ三人組とも言おうか、三羽烏とも言おうか、そういうような感じで( ? )。確かにそういう一つの(修行というのは?)、初めてだった。今日は( ? )
(音声が小さい)
(13分より)
といったようにですね、お互いに一つの信心のグループというものが、そういう風に固まっていく。有難い。信心に連れはいらんと仰せられるけれども、その過程においてもです、手を引き合い、または励まし合い、していけれる信心のグループというものが必要である。そして目指すところ、誰が何と言うてもどういう場合であっても信心には連れはいらんと、一人ひそかに信心するという信心が続いていかなければならん。一人ひそかに信心、そにはもう、我とわが心の中に生神様が生まれてござる。いうならば、神様と二人連れ、同行二人、そういう信心ができて、私は初めて死ぬるにも連れいらんですむ、有難いおかげが頂けれる境地が開けてくると思うのです。
皆さんも信心の願いというものが、そういう高度なところに置かれる。死生の安心を得るという事。生きても死んでも天と地はわが住処と思えよと。死んだからというて神のお世話にならんわけにはいくまいが、死に際にもお願いをせよと。死に際にもお願いをする、死に際にも祈らせてもらう。そして、お礼が言えれる気持ちというものを作って、そういう信心の、私は境地を開かせていただくために連れがいる。
善導寺の原さんなんかのように、毎朝夫婦が、それこそ手に手を取り合うて、妻は夫を慕い、夫は妻を労わりするというような感じですね。もうそれが十何年間続いておる。そういうですね、私は有難い連れというものをです、作らせてもらい、そういう連れを連れのうて、信心がいよいよ高度な、いよいよ人生最大事を悟らせてもらい、しかも大事という事は、私は死ぬるという事だと思うですね。人間の一番の重大事というものは。その死ぬるという時にです、心の中に喜びを感じさせてもろうて、有難い、有難いなあとその、その有難いというものをです、あの世にもそのまま持っていけれるという信心。あの世でも神様の、もうあの世は仏様、この世は金光様、そんなわけにはいかんのである。釈迦もキリストも、何々教祖と言われる人でも、天地のお世話にならんわけにはいかん。天地より他に行くところがない。そんなら地獄というても極楽というても、根の国 底の国と申しましても、やはり天地の他に一歩も出るところはないという事。その天地のお世話にならんわけにはいくまいが。神の世話にならんわけにはいくまいが。これからもどうぞよろしゅうお願いしますという、あの世への誕生ができれる、心が(? )、はあ心安しという気持ちをです、どのような場合でも開かせて頂けれる、そういう信心をお互いが極めていくという事が信心の第一の願いでなからなければならん。この事を願い、この事が成就する為に、私は一生懸命椛目に、いや合楽にお参りしよる。そういう願いが一つ一つ成就していくという事です。
私は今日、先日、ある方のお願いをさせて頂いて、その方の熱心な信心をしておられます。その方の兄弟が手術をしなければならないところ。ところがその方は毎朝朝の御祈念にお参りをして、その、( ? )になっておられます、の、まあ、祈願を願われた、平癒祈願を願われた。そして神様のありがたいという事をです、一つ自分の兄弟にも姉にも分かって、分からせよう。そこで手術を一週間でしたか、延ばさせられた。まあそこへみんながちょっとこう、まあ思います事はですね、一週間お参りをしよる内にもうそれこそ病院に行ったところがもうこれは手術はせんでん良かて、これは金光様のおかげに違いは無いと、信心の分からん者でも分からせるようなおかげを頂きたいという思いがぱっとするんですね、みんな、誰しも。ほら見てみなさい、私が一週間朝参りをさせて頂いた。あんたが連れて参ったが、金光様ちゃあこげん有難かばい。一週間見せに行ったところがもう手術はせんで良いと言われるようにおかげ頂いておった。もう跡形のないようにおかげを受けておる。だからそういうおかげはみんなが願うてても、こういうおかげが何時もかつも現れるものではないという事を知らないけません。そういうおかげを、まあいうならば奇跡的というでしょう。金光様の信心はそういう、金光様の御信心はとりわけ教祖の時代にでも奇跡が少ないと言われております。そういう摩訶不可思議なといったようなですね、あります。ありますけれどもそういう事がいつもであるというような観念、そういう思い方が信心が堕落する元になります。そういう考えは皆さん(するんじゃ?)いけんです。( ? )、なんでもない平凡な、一週間お参りをされた、姉さんも一緒に参られた、そして一週間たったら手術のおかげを頂いた。その医者の上にも( ? )の上にも、( ? )の上にも、まさに手術の様々な上にも、万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂いて、もう順調に順調に手術ができた。おかげを頂いて退院のおかげを頂いて、そういう中にですよ、実は、何ともかんともいえんおかげを分からなきゃいかんのです。今日は退院して帰ったけれども、そういうおかげであるから、やっぱ( ? )、そりゃそんなりで、それっきりお礼参りにも出てみえません。ご本人はお参りを、信心は続けられておりますけれどもです、もうそういう平時平凡、もう平凡な平凡な中に天地の親神様の働きというものがです、もういっぱいあって、そのお守りの中に病院にいくのであり手術させて頂くのであり、全快のおかげを頂くのであるというのだったら、そういう(理由?)はいくらもあります、そういう奇跡的なおかげをね、いわゆる、今日の福島さんなんかがそうだったでしょうが。中村さんのお導きで、ここの中に大きな塊があるのが二十日間のお参りの間にいつの間にどこに溶けていったやら無くなったやら分からんというようなおかげも確かにあるのです。けれどもそういう事だけがおかげであるというのじゃない。そういうおかげを頂いたから信心が進むというのでもない。そういうおかげを頂いたから徳を受けたという事ではないという事をです、お互いが知らなければいけません。信心というのはです、信心というのはもう実に平凡、淡々とした、何でもない、そういう中に親神様のおかげというのも心の中に感じさせてもらえるような信心が大事なのです。何でもない、( ? )。おかげで手足が動いております。今日もおかげでお参りができますと、そういう中にです、いよいよ有難いものを感じさせて頂くような信心こそが大事です。ですからもうとりわけ何かその、まあ不思議なというようなおかげを頂かなければ神様に心が向かないといったような事ではならんのです。いつの間にか何とはなしにおかげを受けておる。それが(純然たる?)、考えてみると本当にあれもおかげであるこれもおかげであったと分かってくるようになる。信心させて頂いておる事によって、だんだんだんだん信心がそういう何ともいえん地味豊かなというかね、そういう信心が育っていく。だから私はどうでも連れがいると思うのでございます。そういう何でもないのが、いいやお参りせんばってんおかげ頂かん、何か摩訶不思議なおかげを頂かなければおかげじゃないというような考え方、そういう中に信心の励まし合い、手を引き合い、連れ合うて信心が進められていく、そういう同志が確かに必要であるように思う。そしてギリギリのところはです、一人ひそかに信心するという信心が(あるばってん?)、そこにはです、やはりもう、誰よりもです、もうあの人の信心の、いわゆる追従を許さないというようなですね、抜けた信心が育ってくるわけなんです。
お互いが信心させて頂くと、いつの間にかしらんけれどもですね、その、本当不思議である、( ? )といったようなです、おかげを頂かなければです、目くらが途端に開いたとか、ちんばがいっぺんに立ったとかといわなければ神様のおかげではないような思い方は、これは捨てなければいけません。本当言うたら。その中に神様のおかげを悟らにゃいかん。そこにです、そういうおかげが頂ける( ? )信心が、いよいよ有難いものになってくるのです。
我とわが心を奉らせてもらえるような信心というのは、そういう信心からしか育ってまいりません。奇跡の連続といったような中から生まれてまいりません。どのような中にあっても、降ろうが照ろうが、信心辛抱し抜かせて頂く内にです、我とわが心がだんだん拝めれるようになる、こういう中にあっても有難いものを失わない、こういう場合にあっても驚かんですむというような信心が育っていってこそです、我とわが心が奉れれる。そういう信心の体験の積み重ねがです、死ぬるにも連れがいろうがではなくてです、連れはいらん、一人有難くおかげの頂けるという死生の大安心が頂けれるようなおかげが頂けれると思うですね。そこを目指しての信心が尊いのです。
どうぞ。